剣形:平造り、庵棟、筍反り。身幅尋常ながら重ね頗る厚くつく。ふくらやや枯れごころに先重ねがやや薄い刺突に適した体躯をしている。(刀身拡大写真)
彫物:指表には素剣に梵字、裏には護摩箸の彫物がある。
鍛肌:板目肌の地鉄は杢を交えて潤い、地沸を厚く敷いて地景頻りに入り鉄色頗る明るく冴える。ふくら付近に淡く棒映りがたつ。
刃文:匂口やや締まりごころの直刃は刃中の匂深く、小沸厚く強くつき、刃肌に絡んで砂流しかかり匂口明るく冴える。
帽子:直ぐの焼刃高く中丸に返る。
茎:生ぶ、目釘孔壱個。刃上がりの栗尻張る。勝手下がりの鑢目。茎棟には九字真言『臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前』の切付がある。指表のやや棟寄りには『備州長船勝光』、裏には『文明十二年二月日』の制作年紀がある。
播磨・美作・備前三国の守護大名赤松政則に重用された備前長船の兄弟、勝光・宗光は最上作の誉れ高き名匠。右京亮勝光は永享七年(1435)生まれ。文明から明応(1470~1500)頃までの年紀作がある。『土屋押形』には『備前国住長船右京亮勝光年三十七、長船左京宗光年三十五作之、文明三年二月日』の兄弟合作脇指を揚げていることから兄弟の年齢差が判る。長享二年(1488年)には足利義尚の近江出陣に際して赤松政則の命を受けて出陣し「於江州御陣作之」、同三年(1489)の帰途では山城での作刀がある「於平安」。
右京亮勝光は戦国時代にはじめてその名があらわれ、文明十年から同十六年の間にもっとも活躍している。さらには二歳年下の弟左京進宗光との合作が長享二年(1488)年紀まであり、代表作として徳川家康公の御陣刀で重要文化財の脇指『備前国住長船勝光宗光 備中草壁作 文明十九年二月吉日』 附)小さ刀拵が栃木の日光東照宮に所蔵されている。
この短刀は文明十二年(1480)、右京亮勝光が四十五歳のときに千種川の良質な真砂砂鉄を用いた精鍛作。極厚の茎棟には護身、戦勝の御利益があるとして武将が出陣の際に唱えた『臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前』の九字真言の切付がある。戦乱に明け暮れ、明日の勝利を願い、身の安全を祈念し、神仏のご加護を得る守り刀の証であり、守護代赤松正則や配下の武将の好尚をよく顕している。
特別な需によるものであろう。尋常な身幅にやや内反りのごころの端整な姿に直刃を配した鎌倉時代の短刀姿に範を採りながらも、重ねを頗る厚く仕立てる体躯は往時に流布した所謂、鎧通しの剣形をしている。神妙な鏨運びの銘字と棟に刻された九字真言は、本作が俗名こそ添紀してなくても快心作であることを明示している。右京亮勝光円熟期の高い技倆を首肯する優品である。藤代義雄『日本刀工辞典』古刀篇、および『長船町史 刀剣編図録』双方の所載になっている。末古刀最上作
附)溜塗鞘合口短刀拵 (拵全体写真・刀装具各部写真)
- 小柄:縄暖簾図、赤銅魚子地、高彫、色絵、裏哺金、無銘、加賀後藤(保存刀装具)
- 目貫:縄暖簾図、赤銅容彫、色絵、無銘 加賀後藤
- 柄:朱黒漆塗出鮫着
- 鞘:溜塗研出
金着一重はばき、白鞘付属
参考資料:
藤代義雄『日本刀工辞典古刀篇』 昭和五十年
『長船町史 刀剣編図録』 長船町 平成十年
本間薫山・石井昌國 『日本刀銘鑑』 雄山閣 昭和五十年
本間順治・佐藤貫一 『日本刀大鑑』 大塚工藝社 昭和四十二年